教えのやさしい解説

大白法 633号
 
大小相対(だいしょうそうたい)
 五重相対の第一「内外相対」では、外道に対して内道の仏教が勝(すぐ)れていると判釈(はんじゃく)されました。
 この仏教に、大乗(だいじょう)教と小乗教の区別があり、これを比較(ひかく)相対して大乗教が勝れていると判定するのが「大小相対」です。
 「乗」とは、「運ぶ」「乗せる」という意味で、釈尊の教法が人々を迷(まよ)いの此岸(しがん)から悟(さと)りの彼岸(ひがん)へ運ぶ乗り物に譬(たと)えています。つまり、小乗は小さな(劣(おと)った)乗り物であり、大乗は大きな(勝れた)乗り物を意味します。これを日蓮大聖人は、『乙御前(おとごぜん)御消息』に、
 「小乗経と申す経は世間の小船(こぶね)のごとく、わづかに人の二人三人等は乗すれども百千人は乗せず。設(たと)ひ二人三人等は乗すれども、此岸につけて彼岸へは行きがたし。又すこしの物をば入るれども、大なる物をば入れがたし。大乗と申すは大船(たいせん)なり」(御書 八九五)と教えられています。
 さて、天台大師の判釈によれば、小乗教は釈尊が十二年間にわたって説かれた阿含経に当たります。この教えは自己(じこ)の救済のみを求める声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)等の小乗の機根を大乗教へと誘引(ゆういん)するために説かれた初歩的(しょほてき)な教えと判ぜられます。教理(きょうり)は「空(くう)」の教えを根本にし、灰身(けしん)滅智(めっち)の小果に至らしめる法門です。
 これに対して大乗教は、小乗教では遠く及ばない高度な教理を説くもので、華厳(けごん)・般若(はんにゃ)・法華等の経教(きょうぎょう)をいいます。この教えは小乗の自利的(じりてき)な教えを破折し、仏の遠大(おんだい)な悟りを求めて自己と他(た)の者をも救済していくという、菩薩(ぼさつ)大乗の機根を運(はこ)ぶ教えです。
 すなわち、教理が高く広く幽玄(ゆうげん)であり、多くの衆生を救済することを目的とするために大乗教といい、教理が低く狭(せま)く浅薄(せんぱく)であり、自己の救済のみを求めるゆえに小乗教というのです。
 大聖人の大小相対判は、このような天台の教相の意義を当然含(ふく)むものですが、外道(小乗)に対する小乗(大乗)、権(ごん)大乗(小乗)に対する法華迹門(しゃくもん)(大乗)、文上(もんじょう)迹門(小乗)に対する文上本門(大乗)等と幅(はば)広く活用されています。
 中でも『観心(かんじんの)本尊抄』の文底下種三段(さんだん)を明かす箇所(かしょ)では、
 「一品(いっぽん)二半(にはん)よりの外は小乗教」(同 六五五)
と示されているように、文底能詮(のうせん)の一品二半以外の諸経はすべて小乗に属すと判釈され、これを所詮の法体(ほったい)に約したときには、次下(つぎしも)に、
 「但(ただ)し彼(かれ)は脱、此(これ)は種なり」(同六五六)
と説かれているように、文底下種の南無妙法蓮華経こそ唯一(ゆいいつ)の大乗であり、その他の権教・法華迹門、さらに文底が未(いま)だ顕れる以前の文上本門の一品二半等は悉(ことごと)く小乗教と見なされるのです。
 末法万年の衆生を救済(きゅうさい)する真実の大乗、権大乗の教えたる南無妙法蓮華経をもって、他(ほか)の一切の小乗を破折していきましょう。